強くなる。誰もかれも守れるくらいに。
「ギルバート」
風に負けない、凛とした声に呼ばれて我に返った。
振り返ると、銀縞模様のリーダー猫が居た。
堂々たる体格。わずかに開いて地面にしっかりと根ざすような脚はしなやかでたくましく、あの足が素晴らしい跳躍力をもっているのを、ギルバートは知っていた。
「なにか、用か」
ぼんやりと考え事をしていたせいか、心持、声は固い。声を出してからそのことに気付いてぎくりとする。彼は不快に感じただろうかと、気まずい思いをごまかすように尻尾をゆったりと左右に振り、その場に腰を下ろした。
「座っても?」
リーダー猫に尋ねられ、ますます具合の悪い思いで瞬きをする。
猫の瞬きは、敵意の無いことの表れだ。マンカストラップはほっとしたように微笑み、ぺたりと座るとささっと後脚で顔の辺りを掻いて背筋を伸ばす。
無駄のない動きは一つの流れのようで美しい。
「なにか、考え事を?」
ぼんやりとマンカストラップを眺めていると、彼は穏やかな表情のままに尋ねてきた。
「強くなりたいと、考えていた」
具体的でありつつも抽象的な言葉に、マンカストラップは意味を図り損ねたのか片耳をぱたりと動かし、しかし続きを促すように何も言わなかった。
「俺は体が小さい。人間にも、良く仔猫や雌に間違われる」
猫同士ならば、さすがに間違うことは無いが、やはり小柄という事実は大柄な猫から下に見られる要因の一つではある。
長老猫の庇護のもと、平穏なこの街に暮らしていながらも、流れ者の、無頼な猫に絡まれては返り討ちにする、ということが幾度かあった。
「いざというときに役に立つどころか、タントミールを危険な目にあわせた。もう二度とあんなことが無いようにしたいんだ」
舞踏会の夜、唐突に現れた犯罪猫、マキャヴィティには雄猫全員でかかろうともかなわなかった。
己が傷つこうが構うものかと無謀にもマキャヴィティに攻撃を仕掛けたギルバートだったが、しかし逆に攻撃を受け、しかも心配して駆け寄ったタントミールがマキャヴィティに捕まった瞬間全身の血が凍るような恐ろしさに襲われた。
「…そうだな」
マンカストラップの声も、やや暗く硬くなる。
「あの夜の出来事は、誰もの心に影を落とした。勿論俺にも、だ。俺は皆の信頼に答えるべきだった。しかし、あのざまだ」
守りたい。強くなりたい。
恐らくは、あの瞬間に誰もがそう感じ、己の慕う猫を想ったはずだ。
それがより強い結びつきを生んだとも言えなくはないが、マキャヴィティに感謝などすべくもない。
「マンカストラップは」
自分の言葉により表情を曇らせたリーダー猫に何か言おうと、ギルバートは口を開いたが、上手く言葉が出てこず髭をひくつかせた。
なんと言えば良い? 彼は悪くない、と? その言葉の虚ろさを、誰よりも知っている自分がそれを口にすることはできず、ひくひくと髭を動かし、そして強引に、かなり強引に話をかえた。
「マンカストラップは、飼われ猫なのか?」
時に蔑称として使われる呼びかたをしたが、ギルバートにその意図はなかった。
マンカストラップは碧い眼を大きく見開きギルバートをみて、それから首を振るってその首に巻きついた、黒く重たい首輪をちゃらりと鳴らした。
「…こんなものをつけているから、そう見えるだろうな」
「ちがうのか」
「そうともいえるし、そうではない、ともいえる」
自らも首を傾げながら、マンカストラップはあいまいな答えを寄越す。
語りたくないことなのだろうか。
ギルバートは尻尾をぱたんと地面に打ち付けたが、マンカストラップは気にすることなく言葉を続ける。
「俺が生まれたのは空き地の草むらの、じめじめして汚いところだったが、育ったのは路地裏だ。人間の生活に興味があってね。
母親はそんな俺を変わり者と言っていたが、俺はたいして気にしていなかった」
僅かに背の高いマンカストラップは座ったままでもギルバートをわずかに見下ろして、穏やかな表情のまま語り始めた。
「色々な家を覗き込んで、あちこちでいろんな名前をもらったが、どれも人間が気楽に呼ぶためのもので…
例えばピーター、ジェームス、ジョージ、ビル…ありきたりだろう?
もっと良い名前を付けるところもあったが、どれもやっぱり平凡だった」
ギルバートはそれを聞きながら、マンカストラップは一体どのくらいの時を生きてきたのだろうと考えた。
普通の1歳猫がもらう名前にしては多いような、しかし家々の渡り歩きをしていたのなら、一時にそんなたくさん名前をもらうこともあるだろうか。
そしてふと、自分の名前について考えた。
もう思い出せない程に長い時を生きてきたが、自分がもらう名前は常に『ギルバート』だったような気がする。
「母猫は俺を置いて去った。それがお前の幸ならばそうしろと。彼女は詩人か、哲学者むきの猫だったんだろう。
それとほとんど同じころに訪れた家で、俺は俺の名前を知った。マンカストラップ。これが俺の名前だ。呼んだのは、"教授"と呼ばれる、冴えない学者風の男だが、何故だか妙にしっくりくる。俺の名前はこれしかないと、呼ばれたと同時に知った。
…俺たちの名前は、どこから来るんだろうな。考えたことがあるか、ギルバート?」
「いや。でも、今、俺も同じことを考えていた」
今日のマンカストラップは良く喋る。
ときにはタガーと喧嘩をしている様を見かけるが、おおむね誰にでも平等に接し、多くを語らない猫だと思っていたギルバートは驚きながら頷いた。
「俺は生まれたときからずっと、この名前で呼ばれてきたように思う。もう思い出せないが、人間とくらいしていた時にも、そう呼ばれていたはずだ。他の名で呼ばれた記憶はない。どういうことだろう?」
「俺が思うに、猫はその名を抱いて生まれて来るのだと思う」
「その名を?」
「呼ぶことができるのは、きっとその猫と特別な、なにかおそらく特別な関係のある人間だ」
絆だとか情だとか言う名前だというマンカストラップは少し首を傾げて、空を見上げた。
ギルバートもつられて空を見上げたが、ほんのすこしの雲がゆっくりと流れているだけで、特別気を引かれるようなものはなかった。
「もう、昼時だろうか」
「うん? ああ、人間たちは飯を食べるころだな」
ふと呟かれたのは人間的な時間を尋ねる言葉で、ギルバートが片耳を立てて時を告げる鐘が聞こえただろうかと思っていると、鐘が鳴りだした。
「街へ繰り出そうかマンカストラップ? あんたも、ゴミ漁りをするのか? いまなら大通りに行けば飯をもらえるぞ」
ランチの時間帯、大通りは昼飯を取ろうとする人間でにぎわう。
暇と金を持て余していそうな人間…大抵は、濃い化粧の匂いをさせている人間、に声をかければ十分満足のいく食事がとれる。
リーダー猫たるマンカストラップがそんなことをしている様子など想像できなかったが、ランパスキャットやコリコパットと違って親ヒト派な彼なら、一緒に食事ができるかもしれないと思って誘ってみる。
「いいや、大丈夫だ。俺が行けば皆の取り分が減るだろう。俺は大食いだからな。…それに、教授に飯を食べさせなければ」
冗談めかして断りながら腰を上げるマンカストラップに首を傾げると、わずかに苦笑して尻尾をゆったりと左右に振った。
「俺が飼われ猫であるとすれば、"教授"は飼い主にあたる、人間だ」
「人間?」
意外な言葉にギルバートは瞠目する。
彼の話から、首輪はかつてわたり歩いた家でもらったものだろうと思っていたし、彼が面倒見の良い猫であるのは周知の事実だとしても、人間の世話まで見ているのかと驚いた。
「彼は良く食事を忘れる。俺の分だけでなく、自分の飯さえ忘れて部屋に籠っていることがある。
…放っておけなくてな」
「その人間が、マンカストラップの特別な人間か」
「恐らく」
彼は背を伸ばし、前脚、後ろ脚と順に伸ばしてから体をぶるりと震わせた。
堂々たる体格の猫がやると随分様になるなとギルバートは考えた。
「ギルバート、お前は素晴らしい猫だな」
そのまま去ると思っていたマンカストラップが唐突に言ったので、ギルバートは意味を捉えきれず、両の耳をぴっ、と立てた。
「その名以外で呼ばれたことなど無いと言っていた。
きっと、出会う人間たち全てと、深い繋がりをもっていたのだろう。なかなかできないことだと、俺は思う」
「そう、だろうか」
もう思い出せない人間たち。強い結びつきを感じてはいたが、記憶の彼方へ押しやってしまったというのに?
「時間というのは、記憶を削る砂のようなものだと俺は思う。お前の中に残った、擦り磨かれたものが、お前の芯を作っているのだろうな」
マンカストラップの碧い目が羨まし気に細められ、そしてさっと顔を寄せて挨拶をするともう駆け出していた。
「俺の芯…?」
マンカストラップが母親を評したように、彼自身も詩人か哲学者なのだろうか。
彼の言葉はギルバートには難解なように思われたが、しかし砂に削られたもの、という表現はいつだかに訪れたどこかでみた丸いすべすべした石を連想させ、それが芯だと言われるのは、悪くないような気がした。
ギルバートは座ったまま、目を閉じる。
今はもう、思い出すことも稀となってしまった人間たち。しかし彼らとともに過ごしたという事実は忘れて居ない。
覚えているのは、ともに暮らしながら、強くつよく願った"守りたい"という思い。
「なるほど」
守りたい。そのために強くありたい。それが、自分が生きるための意味であり、答えのようだった。
マンカストラップの言う擦り磨かれたものというのは、このことだろう。
回りくどく考えれば難解に思われたことが、実にシンプルな形で胸の中にすとんと落ち着く。
そして口元に笑みを浮かべた。
幾度もいくども繰り返し失ってきた守るべきものを求めて彷徨い、たどり着いたこの街で、ギルバートは素晴らしい答えにたどり着いたのだ。
「俺は、タントミールを守りたいんだ」
美しい猫。素晴らしく高貴な猫。命を懸けて守るに値する猫。
一度思い出せばたまらなく愛おしくなって、あの甘い匂い、あの柔らかな短い被毛に触れたくて、矢も盾も堪らずギルバートは立ち上がり、ぶるんと体を振って走り出す。
彼女は家に居るだろうか? 突然訪れたらどんな顔をするだろう。
すっかり、空腹など忘れていた。
マンカストラップと会話をするまでに考えていた、自分の無力ささえ、忘れていた。
ああ素晴らしいタントミール! きみは俺にこんなにも力を与えてくれるんだ。