ぱたり、と音を立てて本を閉じた。
カーバケッティはしばしそのポーズのまま、なにかを待ち―結局は、何も起こらずに―本を机に残し部屋を出た。
「カーバっ!」
部屋を出た途端に投げかけられた耳に突き刺さるような声と、廊下の窓から差し込む光に顔を顰める。
赤金色の光は夕刻を示し、駆け寄った小柄な猫、ランペルティーザの瞳孔は大きく開いている。
「お腹空いてない? ご飯食べよう!」
「もう決定事項なんだろうね」
尋ねたくせにぴょこんと飛び跳ねるように踵を返し、ランペルティーザは廊下を駆けていく。
「早く! "営業時間"になっちゃうよ!」
どうやら夕方から営業開始のどこかへ食べ物を頂戴しに行くつもりのようだ。
カーバケッティは自他ともに認める穏健派であり、スリルを求めて人間の領域を犯す彼らの行動にはついていけない。
廊下に佇んだまま、ゆるりと尻尾をうち振るう。
なにか考え事をしているような仕草にランペルティーザも足を止めた。
「ランプ、僕は遠慮す」
「ダメー!!」
カーバケッティの言葉を遮り、ランペルティーザは叫びんで駆け寄り、カーバケッティの前脚を引っ張った。
「一緒に行こう! カーバに見せたいものがあるんだよっ」
「見せたいもの?」
先日、相棒のマンゴジェリーとともにオープンしたばかりの小さなバルに忍び込み、そこでランペルティーザが見たものは。
ゆらゆらゆれるキャンドルと、それを反射して飴色に光るアンティークのランプ。壁からすべてが温かな色に染まり、豊かな食べ物とアルコールの匂いが満ちた空間に、ゆったりとした音楽が流れていた。
そこで食べたチキンの燻製は、いままで食べたものの中でも一番の美味しい食べ物だった。
あれを、あそこで一緒に食べたかった。
「カーバみたいな、お店だったんだよ」
「…小汚いってことかい?」
カーバケッティは片耳をぱたりと動かし、怪訝な顔をする。
自分のような、と言われても。泥まみれ、オイルを拭いたダスター、ぼろぼろの…悲しいほどに、良いものに例えられた記憶がない。
しかしふと、思い出す。そういえば、ランペルティーザだけは、違うものに例えてくれたのだった。
「ああ、いや。鼈甲、かい?」
どこかの可哀想なお嬢さんから頂戴してきた、とろりと溶ける飴をそのまま宝石にしたようなブローチ。彼女はそれをカーバケッティのようだと笑ったのだ。
「…わかんないけど、カーバは小汚くなんかないよ?」
言って、ランペルティーザはカーバケッティの肩口に、ピンク色の鼻を摺り寄せた。
「あったかい、綺麗な色。あたしの大好きなお日様の、夜になる前の最後の色みたい。ね」
甘い柔らかな匂いが鼻をくすぐり、カーバケッティの背筋にぞくぞくとした何かが這い上る。
「ほら、今も。背中が溶けて消えちゃいそうだもん」
ぐりん、と小さな頭を擦り付けて、ランペルティーザは笑う。
そうだ。彼女は控えめに、とか、はにかんで微笑むということができないのだ。いつだって、太陽に向かう向日葵のような、曇りのない笑顔を見せてくれる。
この、自分にさえも。
「あー、もう」
そう思うとたまらず、カーバケッティは前脚で彼女を抱えるように引き寄せて、その丸い頭の天辺に鼻先を寄せてキスをした。
そしてランペルティーザは、やっぱりはにかんだり、照れたりせずに、きゃあ、と歓声をあげて笑うのだった。