しんと静まり返った教会の、古びた木の扉がゆっくりと開く。
微かな、本当に聞こえるか聞こえないか程度に、きぃ、と軋んだその音に、タンブルブルータスは顔を上げた。
『やあやあ、ねこさんや。おはよう。良い天気だね』
ブリキのバケツと掃除道具を抱えた初老の掃除夫が、くたびれた帽子を軽く持ち上げて挨拶をする。
タンブルに向けて、ではない。タンブルは梁の上、男からは見えない位置に座っていたが、男は教会の奥、祭壇のある辺りに顔を向けてにこにこしている。
タンブルがちらりと目を動かせば、赤いびろうどの絨毯のうえに、しわくちゃの猫が体を伸ばして座っているのが見えた。
懐深くすべての猫の守護者たる長老猫は、人間にさえ鷹揚にうなずいてみせた。
起きていらしたのか。今日一番の挨拶を、人間に(しかもあんなに軽々しい言葉で)先を越された不快さに、タンブルの細い尻尾は勝手に動き、寝床を叩いた。
「んん…」
その音に反応してか、すぐ隣、小さな体が身動ぎし、喉を鳴らした。
くるりと丸くなって眠っていたカッサンドラはうっすらと目を開けたかと思うとまたぎゅっ、と目を瞑り、両前脚で顔を擦った。
「…朝なの?」
「ああ。…でも、眠いのならもう少し寝ていれば良い」
すこし掠れた細い声に、まだ早い時間だ。とタンブルは囁いた。
猫に時間は関係ない、と思われがちだが、彼らの生活は存外に規則正しい。もちろん、人間の価値観からするととてもルーズではあるが。
タンブルとカッサンドラは石造りの古い教会の、梁の上に住んでいる。
老デュートロノミーの暮らすこの教会で、タンブルは朝一番に長老猫に挨拶をし、狩りに出掛けてカッサンドラと朝食を取る。
それから、天気によって二匹連れだって散歩をしたり、集会所に顔を出したりして、顔馴染みの猫たちが、なんの変化もなく息災であることを確認するのが、おおよその彼らの日程だった。
「でもあなたが起きたのなら、私も起きるわ…」
殊勝なことを言いながらもカッサンドラの言葉はあくび混じりで不明瞭なもので。
その黒真珠のような目を何度も瞬かせている。
「それなら、台の上に行こう。今日は天気が良いらしい」
先ほど人間から仕入れた情報を元にタンブルが提案すると、カッサンドラは頷き、ようやく起き上がって体を伸ばした。
梁の上から窓へ寄り、雨が入らぬように張り出した軒の上、ここを、タンブルはただ"台"と呼んでいた。
猫にとって、張り出したこの部分と、雨が入り込まないこととの関連性を見出だすのは難しいことで、建築家による緻密な計算の産物も、ただ偶然雨の入らない場所、と認識されていた。
カッサンドラがしなやかな体でするりと台の上に乗るのを見守り、それからタンブルもそこへ並ぶ。
「暖かい」
朝から日差しを浴びた石は暖かく、カッサンドラはまた、ぐずぐずとうずくまってしまった。
彼女が起きると宣言したものだから、目を覚まさせるつもりでここへ誘ったタンブルは彼女の隣に座ったまま、耳をぱたりぱたりと動かした。と、カッサンドラがうふふ、と細やかな吐息と共に笑った。
「その癖、昔とおんなじね」
眠そうに細めた目で、カッサンドラはタンブルを見ていた。
タンブルはすこし首を傾げる。
「そういうとき、耳を、そうやって」
カッサンドラは前脚を伸ばしてタンブルの顔に触った。ちょんちょん、とつつく小さな脚先に、タンブルは眉を寄せているが、されるままにしていた。
概ね、彼女の希望通りにすることが、彼にとっては当たり前のことだった。
「カッサンドラは、変わらないな」
もう成猫のはずなのに、その無邪気で幼気な仕草と、小柄な体も相まって、まるで仔猫のようだ。実際、人間が彼女を「可愛い仔猫」と呼んでいるのを聞くことがあった。
そしてそれを威嚇する度にタンブルは「お父さん猫」と呼ばれるのだがそんな事はどうでも良い。
「変わらないことなんて、なにもないわ」
「そうだろうか」
猫は変化を厭う。環境の変化は即ち生活の危機に繋がる。だから、猫達は一定の場所に集まり、互いに不変を確認しあう。
「あなたも、変わった」
カッサンドラの言葉に、タンブルは僅かに目を見張る。
「それは」
良い方に?それとも、悪い方に?
微かな不安が胸を過った。
「今のあなたに」
うふふ、と吐息と共に笑ったカッサンドラはタンブルの逞しい胸に小さな頭を擦り寄せ、彼の不安を掻き消した。